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執筆者の写真Martin F.

Martin story tokyo2

更新日:9月9日

2011年

記憶は曖昧だけれども、この年は、世界が動いた時だったと思う。



前回の話は、私が東京に来るまでのあれやこれやを

話したと思う。

上京をしたきっかけはそういうことだった。


当時はただただ手探りでいろんなことにチャレンジした


学費は自分で稼ぎながら支払った。

新聞奨学生ってのをみんな知ってるかな?

大学に通いながら新聞配達をして、給料も少しもらえる。

そして学費を払ってもらうという仕組みだ。


お金に困ってる家庭はこの方法でもいけるから調べてみて

ローンで後日払うより断然気が楽だよ。


朝刊を配り、少し休んで学校にいき、夕刊には帰宅し

配達をして、夜間にまた学校。


朝刊て朝3時前には準備するエリアもあるのよ?

結構部数の多いエリアだと結構大変。


私は、世田谷区の池尻って辺りを配達してた。


ボーカルのレッスン、ダンスレッスン、

パソコンを使った作曲の仕方などなど

色々勉強しました。


そして、この学校生活で一番大きな事件は

東北の震災。

ここではあまり掘り下げないけど

渋谷のビルが揺れる光景は今でも忘れない。

渋谷のリハーサルスタジオでライブの練習を

している最中だった。

明らかにおかしな揺れだったので

地下から急いで外に出たら世界が揺れてた。



2010年から2011年で色々なことが動いたね


東京に来るきっかけになった、ユニットを脱退し

色々あってプロデューサーとも一度縁を切った。


それからたくさんの人に出会った。


24歳の頃からとあることをきっかけに

フランスに楽曲提供の仕事で渡航した。

3〜4年行ったり来たり。

人手不足だったため、マネージャーの真似事から

アーティストのケア、楽曲提供、アルバイト

全てをやっていた。

相当バカにされたよ

慣れないマネージャーとかいう肩書きに

作曲者として、シンガーとして認識されない現実に。。。

相当疲れたし相当イラついた

勉強もした

けど経験値が爆上がりした。


おかげで今がある。

この経験が無かったらいまのMartinは無い


24歳から29歳ごろまで海外とのやり取りと

日本での仕事をしていた。


知っている人は知っているけど

この時期に、某アイドルグループのコーラスの

お仕事やアレンジの仕事をしていた。

多分日本全国の人が俺の声を

聞いていると思う。

ほぼ認識されてないけど。

Taichi Kanon っていう名前でいくつか形跡は残ってる

(ググってもほぼ出てこないからねw w w)


この頃が一番今のMartinの

人格が形成された時期だと思う。


フランス、イタリア、イギリスでの価値観

本当に海外に行けば価値観変わります。

旅行程度だとわからないと思うけど・・・


仕事を手伝ってくれる優しい人、裏切る人、口だけの人

最後まで手伝ってくれる人


ほんと、愛ってわかりやすいよね


今でも付き合ってる友達は

この頃からの友達ばかり

何を尊敬してついてきてくれたのか

当時は全くわからなかったし

むしろ嫌われてると思ってた。


仕事はできないし、愛情表現下手だし、忘れっぽいし


今も変わらんけどw


そんなこんなで20代の人生があっという間に過ぎた

今思い返すと、数時間分の短いような人生だった。

けど絶対に戻りたくない・・・


今が幸せすぎて、過去に戻りたく無い


30歳になってからの人生はまた

全然違う人生のスタートなのよね。。。


この続きはまた今度^^



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